
どうも、nickです。
禅とミニマリズムにおける「食」についての3回目になります。
今回は禅宗の「食」にまつわる教えについて解説していきます。
禅の修行に興味のある方や「食」から人生を見直したい方は、ぜひご覧になって下さい。
前回までの記事を読まれていない方は、そちらからご覧になって下さい。
1回目
2回目
禅と食の深い関係

禅において「食」は、日々の修行と同じくらい重要視されています。
どれほど重要であるかは、五観の偈(ごかんのげ)と典座教訓(てんぞきょうくん)という2つの教えから理解することができます。
それぞれについて解説していきます。
何のための食事なのかを説いた五観の偈

五観の偈は、次の5つの文言からなっています。
- この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。
- 自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。
- 心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、貪(とん)など三つの過ちを持たないことを誓います。
- 食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。
- 今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。
それぞれの文について、解説します。
①この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。

食べ物は、それを作る人、それを市場に輸送する人、販売管理する人、調理する人など、多くの人たちが関わっています。
この文言は、そんな方々への感謝の気持ちを忘れてはならないと説いています。
現代の日本では、お金を払えば食べ物が簡単に手に入ります。
しかし、それは当たり前のことではありません。
多くの方々の関わりがあって、初めて自分の手元に食事がやってくるのです。
そのことに日々感謝しながら、食事をしましょう。
②自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。

食事にのみ集中することで、食事の時間がマインドフルネスの時間となります。
この文章は、食事中は他者との関わりや、メディアからの情報を遮断し、今日までの生き方を振り返り、立ち止まる時間にしなさいと説いているのです。
食事の時間くらいは、テレビやYouTubeは見ず、ひたすら黙食にはげむことをおすすめします。
③心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、貪(とん)など三つの過ちを持たないことを誓います。

「貪」とは三種の煩悩である「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」のいわゆる「三毒」を指しています。
三毒はそれぞれ「貪欲」「怒りや憎しみ」「無知や愚かさ」を意味しています。
ここでは、食においてはいたずらに美食や暴食する貪欲、食に嫌悪や不満に思う心、食の意義や作法を知らないことを恥じることを意味することになります。
食事をする際には、ただ1人で心を鎮め、自分の「食」に対する感情が歪んだものとなっていないか振り返ってみて下さい。
④食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。

人の体は食べたものから作られます。
当たり前のことなのですが、そのことを意識して食事を摂られている方は少ないのではないでしょうか?
食事は、ただ空腹を満たすためだけの行為ではありません。
自分の体を作り、健康のために食べるのです。
また良薬という表現から、食べすぎはよくないことが示唆されていると考えます。
禅宗の修行僧は、とても質素な食事を取りながらでも、健康的に日々の厳しい修行やお寺の管理、維持のための作業をこなしておられます。
nickは、1日3食も必要ないのではないかと考えています。
きちんと栄養のあるものを食べていれば、1日1食でも日々仕事をこなしながら健康的に過ごすことができます。
nickにとってこの文言は、五観の偈の中でも最も共感できる文言であります。
⑤今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。

みなさんは、目の前の食べ物を食べて自分の命を繋いでいくことで、何を達成したいのでしょうか?
禅の僧侶であれば、悟りを開くことになるかと思います。
俗世で暮らす我々であれば、仕事で成功したい。部活で結果を出したい。モテたいなど様々あるかと思います。
何かを達成するためのベースになるのが、心身の健康であると思います。
今までの文言から考えていくと、食べるものには、よりこだわるべきであるとnickは考えます。
nickは半年ほど前から1日1食生活を行っています。
1日1食にすると決めると、その1食がコンビニ弁当やカップラーメンなどのインスタント食品や、マクドナルドのハンバーガーなどになるのはイヤだなと思えるようになりました。
これらのインスタント食品やファストフードは、1日1食になってからは自然と食べなくなりました。
ファストフードばかりを食べる1日3食と、質のいい食材を使った1日1食と比べた時に、nickは後者の方が健康でいられると考えています。
nickの持論ですが、世の中には食べない方が良いものも存在すると考えています。
食を準備する大切さを説いた典座教訓

禅宗の規則の中に、典座教訓(てんぞきょうくん)と呼ばれるものがあります。
典座教訓は、修行僧の食事を作る役職である典座(てんぞ)の意義と心構えとが細かく述べられた書物になります。
食事を作る聞くと、雑用であって、若い修行僧が行うことのようにイメージされるかと思いますが、この給仕の作業は年齢に関係なく持ち回りで行われるそうです。
道元が「食」の重要性に目覚めたエピソード

典座教訓が書かれることになったのは、日本における曹洞宗の開祖である道元が、かつて中国(宋)で修行をした際に出会った二人の老典座とのエピソードがきっかけだそうです。
その時のエピソードをは次のようになります。
宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座が海草を干しているのを見た。
老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり、苦しそうに働いていた。
私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』
老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』
老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった。
また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。
船室に招いて茶を勧め、話を聞くと『私は、阿育王寺の典座である。故郷の蜀を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた三十五里(20キロ)ほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』
私は聞いた。『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』
私はこれを聞き、大いに驚き、また恥じた。
そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。
私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである
Wikipediaより引用
道元はこの老典座との出会いによって、食事を用意するということは、誰しもが行うべき修行の1つであると理解しました。
その後道元は日本に帰国し、建仁寺というお寺に留まりました。
しかし、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、職務を適当に行っていることを道元は見てしまい、ひどく落胆します。
そのことから道元は『典座教訓』を執筆することを決め、食事を提供する者の重要性とその作業内容を詳細に書き残したのだそうです。
調理は誰にでもできる修行である

典座教訓の執筆にまつわるエピソードと五観の偈の文言から、調理をするということは決して雑用などではなく、誰にでもできる修行であるとnickは考えます。
調理することにのみ集中し、作業にムダがないか?食材が無駄にならないのか?手順を省くことができないのだろうか?など考えながら食事を作ると良いでしょう。
そうすることで、調理の時間もマインドフルネスとなるのです。
こうすることによって、日々の習慣にムダはないか?作業を効率化できないだろうか?などを考える習慣が身につきます。
調理を考えることは、日々の生活について考えることにつながっていくのだとnickは解釈しています。
日々の調理の習慣が、人生を変えることに繋がっていくかもしれません。
ぜひみなさんも、自炊をし、食事を作る時間を人生の修行の時間にしてみて下さい。
また、典座教訓は紙の本や電子書籍で読むことができます。
興味のある方はぜひ読んでみて下さい。
まとめ

今回のまとめは次のようになります。
・禅宗には、五観の偈(ごかんのげ)典座教訓(てんぞきょうくん)という「食」にまつわる教えがある
・五観の偈には、食事を行う時の心構えが書かれている
・典座教訓には、食事を作る時の心構えが書かれている
・禅宗が「食」にこだわるのは、禅の開祖である道元が修行中に経験した出来事がきっかけである
1日1食生活になったことでnickは、以前よりも増して「食」について考えるようになりました。
1日3食の時には、ここまで「食」について考えることはありませんでした。
その時は、ただ何となく食事をしていたので、そこまで考える余裕がありませんでした。
ミニマリズムに興味を持ったからこそ、1日1食の考え方と禅の思想に出会うことができました。
ミニマリズムが、禅とnickを引き合わせてくれたと考えています。
みなさんも、自身の「食」に「禅」を取り入れてみてはいかがでしょうか?
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