
どうも、nickです。
月曜の書籍レビューの時間です。
今回紹介する書籍はこちらになります。
今回は伊福部昭(いふくべあきら)氏の「音楽入門」を紹介します。
本書は作曲家としての立場から、音楽鑑賞のあり方についてさまざまな提言が書かれた1冊となっています。
本書は特に、中学、高校の音楽教員は1読することを強くお勧めします。
また小学校の先生でも、鑑賞授業の参考として役に立つと思います。
それでは紹介していきます。
著者は何者?

伊福部昭(1914年 – 2006年)は、北海道出身の作曲家です。
伊福部昭はオーケストラだけでなく、映画音楽を多数作曲したことで知られています。
氏の作曲した曲で、最も有名なのは「ゴジラ」の曲ではないでしょうか?
また、北海道先住民族であるアイヌを題材にした曲をいくつか作曲しています。
なお作曲は独学で学んだそうです。
そのため、氏の作曲する曲は西洋音楽に枠に囚われない発想で書かれた曲が魅力であります。
音楽鑑賞に対する3つの提言

では、本書の内容から音楽鑑賞に対して筆者が提言していることを3つ紹介しようと思います。
筆者が述べている3つの提言は、以下のようになります。
- 誰でも音楽を鑑賞できる
- イメージに頼りすぎな音楽鑑賞
- 形式感覚を指導すべき
本書からの引用を交えながら説明していきます。
誰でも音楽を鑑賞できる

筆者は本書の冒頭でこのように述べております。
しかし、どなたも理屈なしに、なんらかの形で音楽の美しさといったものに心動かされた経験を一度はもち合わせていることと思います。これが大事なことで、どのような人にも、音楽を鑑賞し得る素地というものがあるのであり、それが、ただ、しかつめらしい外的なさまざまな条件によって、くもらされているといって差し支えないのです。
伊福部昭:音楽入門
誰だって何か音楽を聴いて心を動かされたことはあるでしょう。
この、特に理由がないところがポイントになります。
私たちは音楽の授業を受ける以前から音楽を聴いています。
それでも、音楽に対して何かしら思うことや感じる経験があったかと思います。
人間とはそういうものであると筆者は語っています。
何か音楽を聴くことで心が動くということは、音楽の教養があるかないかとは関係がないのです。
そうすると、音楽を鑑賞するということはそれほど敷居の高いことではないことに気づくのではないでしょうか?
イメージに頼りすぎな音楽鑑賞

一方で、筆者は音楽鑑賞について次のように警鐘を鳴らしています。
私たちは、しばしば「この音楽はわからない」という言葉に接しますが、その場合ほとんどすべての人は、自分の中に、その音楽にぴったり合うような心象を描き得ないという意味のことを訴えるのです。この心象は、その人によって異なり、哲学、宗教、文学といったものから視覚的なもの、とにかく、音楽ならざる一切のものが含まれております。 もし、そうだとするならば、その人たちが音楽を理解し得たと考えた場合は、実は音楽の本来の鑑賞からは、極めて遠いところにいることになり、理解し得ないと感じた場合、逆説のようではありますが、はじめて真の理解に達し得る立場に立っていることになるのです。
伊福部昭:音楽入門
ここでは音楽を「理解する」とはどういうことなのか?と述べています。
また筆者は、今日の音楽解説はいかにして多くの連想や幻想を起こさせるための材料を提出するかに、重きを置きすぎていると批判しています。
これでは音楽が、ただイメージの伴奏でしかなくなってしまうからです。
そして、自分の中のイメージと聴いた音楽が一致した時に、音楽を理解したと思い込んでいるのだと筆者は説いています。
ただし、これは音楽の印象を語る場合に適切な表現ほうがなく連想的な言葉を借りるしかないため、仕方のないことであります。
裏を返せば、言葉によって特定のイメージを連想させることで、聴衆に音楽を容易に理解させることが可能であるとも言えます。
交響詩などはその例となるでしょう。
しかし、本当に聴くべきなのは、メロディーの運動だとか、和音の美しさ、リズムのユニークさを聴くべきであるのです。
音を楽しむのではなく、イメージだけを楽しんでいないでしょうか?
形式感覚を指導すべき

筆者は音楽を鑑賞する上で大事なこととして、「音楽形式に対する感覚を養うこと」をあげておられます。
話は大分、脇道にそれましたが、音楽の真の美しさを鑑賞するには、どうしてもこの形式に対する感覚を養わなければならないということを強調したかったのです。 殊にソナタとか、交響曲とか、室内楽等はこの形式感と、構造的均衡美がその主眼なのですから、このような形式に立脚した見地から音を聴く態度をも養わなければならないのです。
伊福部昭:音楽入門
筆者は音楽は時間と運動と継続の芸術であるので、形式のない音楽というものはあり得ないと語っています。
特に西洋音楽においては形式というのは重要な考え方になります。
秩序や形式を重んじるのは西洋の価値観だからであります。
こういった他の地域の価値観を学ぶことが、学校教育においては大切なことだとnickは考えます。
また形式がわかると、音楽の展開が予想しやすくなりますので、鑑賞のハードルは低くなっていきます。

私が書いている「大人のための音楽鑑賞」の記事も、形式の説明をするように意識して書いております。よければお読みください。
nick的雑感 鑑賞の授業のあり方について
以上の3つの内容から、鑑賞の授業のあり方について、nickが考えたことをお話しします。
教員はまず客観的事実を教える。

これは、生徒を特定の感想に誘導してしまうことを防ぐためになります。
客観的な事実については、誰がいつ作曲した?どこで発表された?音楽の構成、和音の進行などなどがあると思います。
筆者も述べていますが、学校教育で取り扱うクラシック音楽は一定の形式によって書かれて曲がほとんどです。
その形式が時代を経てどのように受け継がれているのか?
音楽の形式が現代までどのように受け継がれているのかはしっかり教えるべきでしょう。
しかし、このような論理的な授業は、実際の現場の授業では敬遠されているようにnickは感じています。
イメージを絵にするってなんだ?

鑑賞の授業において、イメージに頼りすぎた指導というのは現在よく行われてしまっているとnickが感じています。
たとえば「場面ごとに絵や図にして描いてみよう」などという授業です。
nick自身も、「この場面のイメージを絵にしてみよう」などと授業で言われても、正直意味がわからなかった経験があります。
ここ最近はこのような鑑賞の授業がもてはやされているように感じます。
しかし、音楽の授業というのはもっと論理的であっていいのではないでしょうか?
筆者述べているように、音楽を理解するということは、頭の中のイメージと音楽が一致したかどうかではありません。
イメージや言葉での説明は、あくまで補助でしかありません。
音楽はあくまで音楽でしかなく、それ以外のことは表現していないのです。
感想の内容は自由に

先ほども述べましたが、鑑賞の授業ではしばしば特定の感想に辿り着くように誘導しがちになってしまいます。
それ以上に大事なのは、なぜそのように感じたのか?を自己分析し、アウトプットさせることです。
その「なぜ?」について考えさせることが、鑑賞の肝の部分であるとnickは思います。
感想を書いたり、絵に描いたりといったことは自己分析するための補助でしかありません。
「なぜそう思ったのか?」の理由には、音楽理論的に説明できるものや、直感的なものなどさまざまあるでしょう。
また、聴いた音楽が理解できなかったのであれば、なぜ理解できないのかを考えさせるのもいいと思います。
そして、「どんな感想を持ったか?」ではなく、「どのように自己分析できたか?」を評価することが、正しい鑑賞の評価ではないかとnickは思います。
まとめ

今回のまとめは次のようになります。
・筆者の伊福部昭氏は日本を代表する作曲家で、有名な映画の音楽を多数担当した
・本書は音楽を正しく鑑賞するための考え方がさまざま書かれている
・筆者は特に、イメージに頼りすぎる現代の音楽鑑賞の方法に警鐘を鳴らしている
・教員目線で読むと、正しい鑑賞の授業、鑑賞の評価のありかたについて考えさせられる1冊である
本書は音楽鑑賞のありかたについて一石を投じている1冊となっています。
nickも音楽の聴き方について考えさせられる部分がいくつもありました。
冒頭にも書きましたが、中学高校の音楽教員は絶対に読むべきであると思います。
紙の書籍でも電子書籍でも読めますので、全文読んでいただくことをオススメします。
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