どうも、nickです。ざっくり音楽史のルネサンス編です。
今回は主に、14世紀〜17世紀ごろの西洋音楽について解説していきます。
ルネサンスとは?
ルネサンスは、「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、古代ギリシアやローマなどの古代の文化を復興しようとする文化運動のことを指します。
この動きは14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まりました。また、これらの時代(14世紀 – 16世紀)を指すこともあります。
音楽に関しては、古代ギリシア・ローマ時代の音楽を復興しようという動きはイタリアを中心として常にあったが、理論を中心とする議論にとどまっており、実際の音楽の復元という観点ではそれほどの発展はありませんでした。
15世紀から16世紀のヨーロッパの音楽で「ルネサンス音楽」と呼ばれるものの多くは、古代の音楽を復興した音楽という意味ではなく、美術、芸術、文化史における「ルネサンス」期に対応する時代の音楽という意味になります。
対位法の発展
1400年ごろより、ジョン・ダンスタブルによるイングランド独自の3度・6度を用いた和声法がヨーロッパ全土に伝わりました。
これにより、今までは不協和音とされていた3度、6度音程が協和音程として許容されることとなります。
3度、6度音程が許容されることに加え、アルス・ノーヴァによる記譜法の発展により対位法は今まで以上の表現が可能となっていきます。
対位法はのちにギョーム・デュファイやジョスカン・デ・プレらの作曲家たちによって成熟を迎えることになります。
苛烈になっていく対位法と転換期
対位法の発展により、対位法はより複雑なものとなっていきます。
そんな中、16世紀イングランド王国にトマス・タリスが現れます。
トマス・タリスは言いました。
40パートの合唱曲を書くぞ
彼は5声の合唱グループ×8の計40ものパートからなる合唱曲『我、汝の他に望みなし』を作曲しました。
対位法の発展とともに、声部数(パート数)がどんどんと増えていき、音楽は人間が聞き取りきれないほどに複雑かつ大規模になっていきました。
このような過剰とも言える対位法は、16世紀後半にカメラータと呼ばれる研究グループたちによって否定されていくことになります。
従来のポリフォニー音楽では均整の取れた美しさと引き換えに、歌詞が聞き取りづらい。
彼らは単純な和音伴奏に旋律をのせるという様式を採用し、実験的に作曲していくことになります。
この提言と実験より、西洋音楽の主流はシンプルなモノディー様式に取って代わっていきます。
また同時期に出現した和声法の影響も加わり、対位法の発展は落ち着いていくこととなります。
この一連の流れは、後のバロック音楽誕生の一つのきっかけとなります。
器楽音楽の成熟
ルネサンス期は特に、器楽音楽の発展が進んだ時代でもありました。
ルネサンス期の器楽は声楽曲を模倣することから始まりました。
この時代、楽器もたくさん種類がありましたが、たいていの楽曲には楽器の指定はありませんでした。
また、十字軍遠征の影響もあり中東の楽器がヨーロッパに導入されたことも、器楽音楽発展の要因の一つとなっております。
プレトリウスのテレプシコーレ舞曲集
16世紀ごろ、ドイツにミヒャエル・プレトリウスがいました。
プレトリウスはこう言いました。
宮廷や社交場で流行していた様々なダンスミュージックを収集するぞ
こうして集められた300曲以上もの舞踏曲をまとめた楽譜を「テレプシコーレ舞曲集」と言います。
舞曲集は、主に器楽アンサンブルのために書かれました。
異なる楽器の組み合わせにより、多彩な音楽表現が可能となっています。
ルターの宗教改革とコラール
15世紀の終わり頃、ドイツにマルティン・ルターが現れます。
ルターは1517年に「95ヶ条の論題」を発表し、特に贖宥状(罪の許しを売る宣誓状)に反対しました。
これが宗教改革の発端となりました。
このことをきっかけとして、ローマ・カトリック教会から分離したプロテスタントが誕生しました。
さらにルターは言いました。
ドイツ語に翻訳した聖歌を作るぞ
ルターは、礼拝の場で積極的に歌うことをを奨励すると同時に、キリスト教の教えが公衆に広く理解されるということが最も重要であると考えました。
この、ドイツ語に翻訳された聖歌のことをコラール(独: Choral)と言います。
転じて、現代では4声の讃美歌風の曲をコラールと呼んでいます。
このような礼拝を通して、クラシック音楽はさらに民衆の中に溶け込んでいくことになります。
バレエの成立と発展
バレエの起源は、ルネサンス期のイタリアが起源とされています。
当時、宮廷では余興として詩の朗読、演劇などが演じられていたが、その一部としてバロ(Ballo)と呼ばれるダンスが生まれた。
宮廷では舞踏が非常に重要な社交の一環とされていました。
宮廷での儀式や祝典、貴族の娯楽として、様々なダンスが舞われていました。
これらの舞踏が後のバレエの原型となりました。
ルイ14世とバレエ
イタリアで生まれたバロのちにバレッティと呼ばれるようになりました。
バレッティは1533年にメディチ家からフランス王室に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによりフランスに持ち込まれました。
その後17世紀に入ると、ルイ14世が現れます。
彼が4歳で即位した時には5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演しました。
このことがきっかけでルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していきます。
その後、彼が15歳の時にこう言いました。
自分を主役にバレエに出るぞ。
彼は『夜のバレエ』という作品で本格的に舞台デビューしました。
さらに彼はこう言いました。
バレエダンサーのための学校を作るぞ。
彼はよりバレエの質を上げようと、1661年に王立舞踏アカデミーを創立しました。
こうしてフランスではバレエが大きく発展していくことになります。
リュリのバレエ改革
バレエの発展には、作曲家のジャン=バティスト・リュリの貢献も大きく関わっています。
イタリア生まれのリュリですが、フランスに出て活動していたところルイ14世の目に留まりました。
ルイ14世が彼の事を大層気に入ったこときっかけに、やがてリュリは国王付き器楽曲作曲家に任命され、作曲家兼踊り手としてフランス国王に仕えるようになりました。
1650年代から1660年代にかけて、リュリは多くのバレ音楽を作曲し、フランス国王と共に踊り手としても舞台に出演していました。
ルイ14世の即位後リュリは、王の宮廷音楽監督に任命されます。
リュリはルイ14世の庇護の元、今後多くのバレ音楽を作曲していきます。
リュリは音楽とダンスを組み合わせ、バレエとして舞台における芸術形式を確立しました。
彼の作品は豪華な音楽と優雅な舞踏が調和していることにより、バレエ音楽の基礎を築きました。
リュリはバレエの芸術的な方向性を決定し、音楽と舞踏を融合させることでバレエの発展に大きな影響を与えました。
バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、リュリとルイ14世の功績であります。
ちなみにリュリは「指揮棒が刺さって死んだ人」として有名です。
参考
Wikipedia 音楽史
すぐわかる! 4コマ西洋音楽史 1~古代・中世~バロック初期~
洗足オンラインスクール
はじめての音楽史: 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで
音楽史 <作曲家とその作品>
いかがだったでしょうか?
この他にもわかりやすい音楽鑑賞や音楽理論を記事にしております。
また、楽譜の販売と作成サービスを行っておりますので、興味がありましたらご連絡ください。
Twitter、YouTubeチャンネルも宜しくおねがいします。
( `Д´)/ジャマタ
コメント