【大人のための中学音楽】ベートーヴェンってどんな人?壮絶な人生と3つの影響力をわかりやすく解説!

ベートーヴェン
nick hosa
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どうも、nickです。

大人のための中学音楽の回になります。

今回解説するのはこちらの作品です。

今回はベートーヴェンが作曲した交響曲愛5番「運命」を2回に分けて紹介していきます。

この記事を読むことで、なぜベートーヴェンがクラシック音楽界で偉大な人物として崇められているのか?」がわかります。

1回目の本記事ではベートーヴェンの苦難にあふれた生い立ち、そして彼が後世にあたえた3つの影響について解説します。

ベートーヴェンって何者?

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770年 – 1827年)はドイツ出身の作曲家です。

音楽史上極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれています。

そんな彼の人生は、子どもの頃から苦難の連続でした。

名家に生まれるも・・・

ベートーヴェンは、宮廷楽団のテーノル歌手であった父から音楽の手解きをうけました。

しかし父にはアルコール中毒の症状があり、その指導はかなりのスパルタだったそうです。

そのため、一時期は音楽への嫌悪をベートーヴェンは表すようになってしまいました。

そしてベートーヴェンは11歳の時に宮廷楽団に入り、働かなくなった父に変わり家計を支えることになってしまいます。

遺書を書くもスッキリしてしまった?

宮廷楽団を退団後、ベートーヴェンは22歳の時にハイドンから作曲を教わりながらピアニストとして活動をしました。

その後フリーの音楽家となりますが、この頃より原因不明の難聴の症状に悩まされることになります。

「このまま耳が聞こえなくなってしまうのではないか?」

恐怖心からベートーヴェンは本気で自殺を考えていたそうです。

そんな胸の内を兄弟あての手紙に告白するも、いざポストに投函する直前に自殺を思いとどまったそうです。

手紙で自分の気持ちを書き綴ったことで、耳が聴こえなくななってしまう恐怖に打ち勝ってしまったのです。

この手紙は「ハイリゲンシュタットの遺書」の名前で現在も残されております。

実際の手紙の1ページ目

恐怖を乗り越え歓喜に寄す

恐怖を乗り越えたベートーヴェンは、1804年に交響曲第3番「英雄」を発表したことをきっかけに傑作を次々と発表していきます。

この頃よりベートーヴェンは、ピアニスト兼作曲家から専業の作曲家へと移っていきました。

40歳頃には全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられることになります。

しかしそのような苦難にも立ち向かっていき、1824年に交響曲第9番「合唱つき」を作曲します。

第九はオーケストラに合唱とソプラノ、アルト、テノール、バスの独唱を加えた大規模な楽曲で、この発想は当時としては斬新で画期的な試みでした。

幻となった10番目の交響曲

1826年に肺炎を患ったこときっかけに、ベートーヴェンはベッドに寝たきりとなってしまいます。

病気でありながらも10番目の交響曲に着手するも、未完成のままベートーヴェンは亡くなってしまいました。

その葬儀には、当時としては異例の2万人の人々が参列しました。

ベートーヴェンが生前、どれほどの人気があったのかがわかるエピソードですね。

なお書き上げることができなかった交響曲第10番ですが、1988年に残されたスケッチを下にしてベートーヴェン研究者のバリー・クーパーの手によって1楽章のみが発表されました。

亡くなってから200年近く経った現代でも、ベートヴェンの作品はオーケストラ、ピアノソナタなどを中心に数多くの作品が現代でも愛され、演奏されております。

ベートーヴェンが残した功績

ではベートヴェンがなぜ音楽史上重要な人物とされているのか?

その理由は下の3つになります。

・「交響曲」のジャンルを確立させたこと

・文学と音楽の融合に成功させたこと

・フリーランスの先駆けであったこと

「交響曲」のジャンルを確立させた

ベートーヴェンが作曲した9つの交響曲はどの曲も完成度が高く、200年近くたった現代でもその全てが演奏されています。

それだけでなく、ベートーヴェンはオーケストラに新しい楽器を取り入れることを積極的に行いました。

次回解説する「運命」で新たに導入された楽器は、ピッコロトロンボーンコントラファゴットの3つになります。

コントラファゴット

これらの楽器は現在のオーケストラ作品では必ずといってよいほど使用されています。

当時オーケストラでは使われていなかったこれらの楽器を、ベートーヴェンは曲の中で巧みに使うことによって後のオーケストラにはなくてはならない楽器へを押し上げました。

オーケストラでこれらの楽器をベートーヴェンが使っていなければ、現在も使われることがなかったかもしれません。

文学と音楽の融合

ベートーヴェンは交響曲第9番「合唱つき」で本格的な文学(詩や小説、物語など)と音楽の融合を果たしました。

文学と音楽が結びつくことは現代では当たり前ですが、当時としては珍しい試みでした。

特に第九の場合は、詩人であるフリードリヒ・フォン・シラーが書いた詩を使ったことが後に大きな影響を与えます。

ベートーヴェン以降、著名な詩人の詩や画家の絵画などをモチーフとした交響曲を作曲することがヨーロッパで流行していきます。

また「現実の風景を音楽で表現する」といった発想も後に行われていきます。

例)R.シュトラウス アルプス交響曲

この曲は作曲者がアルプス山脈を登山をしたときの体験を元に、アルプスの厳しい自然をオーケストラで表現した曲になります。

「音楽以外のものを音楽で表現する」

この発想が当たり前になったのは、ベートヴェンの第九が広く認められたからなのです。

ベートーヴェンの作品がいかに後世に大きな影響を与えたかがよくわかります。

フリーランスの先駆け

ベートヴェンよりも古い時代の作曲家は、教会や王族または貴族に雇われなければ生活ができませんでした。

市民がオーケストラやオペラを聴くことが一般的になるのは、17世紀から行われた市民革命以降になります。

革命後、一部の特権階級の中だけで行われていた演奏会が市民に普及していきます。

そのため、有料の演奏会や楽譜の出版などのビジネスが成立するようになり、音楽家が独立して生計を立てることができるようになりました。

ベートーヴェンはその先駆けとなった人物となります。

今で言うところのフリーの音楽家です。

ベートーヴェンがフリーランスの先駆けとなれたのは、彼の作品が傑作だったからだけではなく時代の流れの影響もあります。

なお、モーツァルトは就活がうまくいかなかったために、生涯お金に困っていたそうです。

天才モーツァルトをもってしても、当時の時代背景ではフリーで生計を立てるのは不可能だったのです。

ベートーヴェンには、時代の流れを読む力があったのかもしれませんね。

まとめ

ベートーヴェンについてまとめると、次のようになります。

・ドイツの作曲家で、その功績から「楽聖」と呼ばれている。

・親のスパルタ教育や難聴などの困難を乗り越えながら傑作を発表し続けた不屈の作曲家であった。

・200年経った現在でも演奏される交響曲を作曲し、交響曲の地位を押し上げた。

・第九は「音楽で音楽以外のことを表現する」というアイディアの1番の成功例であった。

・フリーの作曲家として自立して収益を得られるようになった最初のモデルである。

今回はベートーヴェンの生涯と彼の功績について解説していきました。

次回は交響曲第5番「運命」の作品紹介と鑑賞のポイントについて解説します。


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( `Д´)/ジャマタ

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