どうも、nickです。
大人のための中学音楽の回です。
今回から解説する作品はこちらになります。
今回はラヴェル作曲の「ボレロ」について2回に分けて解説していきます。
この曲も聴き覚えがある、または映像で見た覚えがあるという方は多いのではないでしょうか?
1回目の今回は「ラヴェルの生涯」と、「なぜこの曲がよく鑑賞されているのか?」について解説していきます。
ラヴェルって何者?
ジョゼフ・モーリス・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel 1875 – 1937)はフランス出身の作曲家です。
主にピアノ、オーケストラ、バレエなどの作品が有名になります。
ここでは彼の経歴を振り返っていきます。
パリ音楽院に入学するも、劣等生だった?
音楽好きだった父親の影響もあり、ラヴェルは7歳ころからピアノを習い始めました。
その甲斐もあって、14歳で名門パリ音楽院に入学するができました。
音楽院では同じフランスの作曲家、ガブリエル・フォーレから作曲を学びました。
パリ音楽院に入学したラヴェルでしたが、音楽院での成績はあまり良くなかったようです。
今では想像しづらいのですが、在学中のラヴェルはピアノや和声のクラスを除籍されてしまうなど卒業のための苦労が絶えなかったそうです。
しかし、のちに「水の戯れ」や「亡き王女のためのパヴァーヌ」といった名曲を音楽院在籍中に発表することになります。
ローマ大賞をめぐる炎上事件
ラヴェルは1900年から5回にわたって、ローマ大賞(1663年創設、1968年廃止)という作曲のコンクールに応募し、優勝を勝ち取ろうと試みていました。
しかし、3位までの受賞しか受け取ることができませんでした。
また、最後のチャンスとなる5回目の応募の際には、すでに「亡き王女のためのパヴァーヌ」や「水の戯れ」を発表していたにもかかわらず予選落ちとなってしまいました。
この結果は世間に衝撃を与えました。
そして「何か政治的な力が働いているのでは?」と騒ぎ立てられ、芸術家だけでなく一般市民からも抗議が殺到し、コンテストは大炎上することになってしまいました。
よくよく調べてみると、本選に残った作品は当時のパリ音楽院の院長でもあり、ローマ大賞の審査員の1人であった人物の生徒が書いた作品であることが発覚しました。
このスキャンダルによってこの院長はその座を辞することになってしまいました。
いつの時代もこういった炎上案件はあるのですね・・・
一時兵隊となったラヴェル
ローマ大賞の一件以降、ラヴェルは作曲家として活動の幅を広げていきました。
そんな中第一次世界大戦が勃発し、ラヴェルは弟の影響もありフランス軍への入隊を志願しました。
本人はパイロットになりたかったため空軍を希望していたようですが、却下となったそうです。
結局ラヴェルは輸送兵として徴兵されることになりました。
ラヴェルは輸送兵として、激しい砲撃の中で資材を輸送するなどかなり危険な目にも遭いました。
また、戦時下でもフランスでは「マ・メール・ロワ」などのラヴェルの作品は上演されていたそうです。
左手のための協奏曲
大戦が終結した後も、ラヴェルの活躍は止まりませんでした。
1928年に初めてアメリカに渡り、4か月に及ぶ演奏旅行を行いました。
ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けるなど、収穫の非常に多い演奏旅行となりました。
この演奏旅行の成功により、ラヴェルは世界的に有名になりました。
その演奏旅行がきっかけなのか、ラヴェルは第一次世界大戦で右手を失ったピアニストから「左手だけで演奏できる曲を書いてほしい」と依頼がありました。
ラヴェルはその依頼を受け、1930年に完成したのが「左手のためのピアノ協奏曲」という作品になります。
映像を見ていただけるとわかりますが、ピアノは左手しか使っておりません。
それでもスケール感が薄く聴こえないのは、ラヴェルの卓越した作曲技法があったからこそでしょう。
なお今回解説する「ボレロ」も演奏旅行以降に書かれた曲になります。
悲しい晩年
1932年、ラヴェルはパリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭ってしまいました。
このことがきっかけで、以後ラヴェルは記憶障害や言語症の後遺症に悩まされるようになる
この頃のラヴェルは、字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間もかかるようになってしまいました。
そのような状況にあってもラヴェルはいくつかの曲を書き留めようとしたが、ついに一文字も書き進めることができなくなってしまいました。
ラヴェルは友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と嘆いたそうです。
1937年に脳の手術を受けるもそのまま意識を失い、ラヴェルは帰らぬ人となってしまいました。
なぜボレロを聴くのか?
ではなぜ中学校の授業で「ボレロ」の鑑賞を行うことが多いのでしょうか?
理由は大きく2つあるとnickは考えます。
話の筋書きを、どのように演奏で表現しているかわかりやすいため
「ボレロ」には次のような筋書きがあります。
セビリアのとある酒場。一人の踊り子が、舞台で足慣らしをしている。やがて興が乗ってきて、振りが大きくなってくる。最初はそっぽを向いていた客たちも、次第に踊りに目を向け、最後には一緒に踊り出す。
「ボレロ」はこの筋書きに合わせて音楽が展開していきます。
その音楽の展開方法が巧みでかつわかりやすいため、よく鑑賞の教材とて使われているのだとnickは思います。
具体的にどのように展開していくのかは、次回解説をします。
1つのリズムと2種類のメロディの聴き取り
ボレロは1つのリズムと2種類のメロディから作られています。
これらがただ繰り返されているのではなく、演奏する楽器を変えていきながら曲が進んでいきます。
「どのように変化していきながら曲が進んでいっているのか?」
「今聴いているメロディがどちらのメロディなのか?」そして「前までとどう違っているのか?」
などを聴き取っていけるかが、ボレロ鑑賞のポイントになっています。
こちらも詳しくは次回解説していきます。
まとめ
今回のまとめは次のようになります。
・ラヴェルはフランス出身の作曲家である
・現在でも演奏されている名曲を作曲するも、コンクールに入賞することはできなかった
・アメリカでの演奏旅行が大成功し、世界的にラヴェルの名が知れることになった
・「ボレロ」鑑賞のポイントは、筋書きとリズム、メロディの聴き取りにある
ラヴェルの楽曲はいずれも、ひねった和音を使っていながらもテーマが非常にわかりやす曲が多いです。
彼の作品が人気がある理由は「ボレロ」の作りにも通じるものがあります。
次回は「ボレロ」という曲の詳しい紹介と鑑賞のポイントを解説していきます。
いかがだったでしょうか?
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( `Д´)/ジャマタ
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