どうも、nickです。
大人のための中学音楽鑑賞の回です。
今回から解説する楽曲は、こちらになります。
今回はチャイコフスキー作曲の序曲「1812」を、2回に渡ってわかりやすく解説していきます。
序曲「1812」はチャイコフスキーの作品の中でも特に、たくさんの奇抜なアイディアが詰め込まれています。
彼の作品は生前あまり評価されることがなく、彼の死後高く評価され作品も少なからずありました。
第1回の今回は、チャイコフスキーの生涯を彼の主な作品とともに振り返っていきます。
チャイコフスキーについて
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840年 – 1893年)はロシア出身の作曲家です。
チャイコフスキーは主に、交響曲やバレエの作曲者として有名な方になります。
特にバレエにおいては、3大バレエ(くるみ割り人形、白鳥の湖、眠れる森の美女)の作曲をしたことで有名です。
そんな彼の生涯を振り返っていきます。
恵まれた環境で幼少期を過ごす
チャイコフスキーは非常に恵まれた家庭に生まれました。
チャイコフスキーは、5歳から家庭教師の手ほどきによりピアノを習い始めました。
ピアノを習い始めたことによって音楽的な才能をチャイコフスキーは示したが、両親にはチャイコフスキーを音楽家にする意志がありませんでした。
チャイコフスキーは10歳でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学することになりました。
その後法律学校を卒業し、チャイコフスキーは法務省に就職しました。
当時のロシアの法務省は、今の日本でいう国家公務員にあたります。
チャイコフスキーはとてつもないエリートだったのです。
ですが、チャイコフスキーは役人としての職務にはそれほど熱意はなかったそうです。
公務員を辞めて音楽院に入り直す
チャイコフスキーが22歳の時に、アントン・ルビンシテインによってロシアで初めての音楽院が設立されます。
すでに両親が亡くなっていたこともあり、チャイコフスキー本格的に音楽の道に進むことを決意しました。
そして翌年、チャイコフスキーは法務省の職を辞して音楽院に入学しました。
音楽院を卒業後は、ピアノと作曲、音楽理論の家庭教師としての仕事を得るようになりました。
チャイコフスキーは大作曲家としては珍しく、1度就職した後に音楽教育を受けなおすという珍しいキャリアの持ち主なのです。
酷評されたピアノ協奏曲
作曲家としてのキャリアが確立してきたチャイコフスキーが、35歳の時に作曲されたのが、有名な「ピアノ協奏曲第1番」になります。
作曲の最中にチャイコフスキーは、初演を演奏を依頼したピアノスト、ニコライ・ルビンシテインに楽譜を見せました。
ですが、彼に次のように酷評されてしまいました。
この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能であるので、私の意見に従って根本的に書き直すのが望ましい
散々な評価をされましまったチャイコフスキーですが、友人であるルビンシテインの言葉に従わず作曲を完成させました。
初演は、ハンス・フォン・ビューローの指揮のおかげもあり、大成功を収めました。
なお、ルビンシテインは後に楽曲を批判したことを謝罪しており、モスクワ初演はニコライ・ルビンシテインの指揮によって行われました。
そして、ルビンシテイン自身も独奏ピアノを弾くこともあり、この協奏曲を世に知らしめる役割を果たしました。
謎の未亡人からの支援を受ける
ピアノ協奏曲を作曲した頃より、チャイコフスキーは富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メック夫人から多額の資金援助を受けるようになります。
これ以降、1890年までの14年間、チャイコフスキーはメック夫人から資金援助を受けることになります。
チャイコフスキーとメック夫人の間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは生涯一度もなかったそうです。
このころ作曲された交響曲第4番(作品36)は、メック夫人のために書かれたそうです。
チャイコフスキーとメック夫人との関係は、以前に書籍レビューでも取り上げさせていただきました。そちらもご覧になってください。
大失敗だった「白鳥の湖」
メック夫人からの援助を受け取り始めた頃に完成したのが、あの有名なバレエ音楽「白鳥の湖」になります。
現在では「バレエといえばこの曲」というほど有名な「白鳥の湖」ですが、初演は振付・舞台美術・ダンサー・指揮者などの水準が低かったことや、従来のバレエ音楽とは異なるチャイコフスキーの高度な楽曲が観客に理解されなかったことから、大失敗に終わったそうです。
初演を酷評されたチャイフスキーは、「私の音楽が未熟であった」と思い込み、2作目である「眠れる森の美女」を書き上げるまで10年以上も、バレエの作曲から遠ざかってしまいました。
白鳥の湖はチャイコフスキーの死後、マリインスキー劇場のバレエ監督でもあった振付師、マリウス・プティパによって再演されたことによって、傑作であると認められました。
死にまつわる謎
1893年10月28日に交響曲第6番『悲愴』(作品74)が作曲者自身による指揮で初演されました。
しかし、それから9日後の11月6日にチャイコフスキーは突然急死してしまいます。
チャイコフスキーの葬儀は、ロシア皇帝アレクサンドル3世に国葬が決定されました。
そして、その遺体はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に、埋葬されました。
死因には諸説あり、現在でもその原因はハッキリとはしておりません。
中には陰謀論的なものを含まれており、彼の死にについては謎が多いです。
以下が主に言われている死因になります。
- レストランで出された生水を飲んだことにって感染したコレラによるもの
- 何らかの原因で感染したコレラから併発した肺水腫によるもの
- 同性愛者であることを理由に、自殺を命じられたため
チャイコフスキーが死の直前に初演した交響曲第6番「悲愴」は、数多くある交響曲の中でもたいへん暗く、重たい雰囲気の曲となっています。
ひょっとしたらチャイコフスキーは、自分の死を予見していたのかもしれません。
まとめ
今回のまとめは次のようになります。
・チャイコフスキーはロシア出身の作曲家である
・彼は法務省で働くも、音楽への情熱が諦められず、仕事を辞めて音楽院に入りなおした
・現在では高い評価を受けている作品でも、演奏された当時は酷評されることが多かった
・彼の死因には諸説あり、現在でもハッキリとはしていない
チャイコフスキーの作品は、現在ではとても高く評価されていますが、当時は酷評も多かったようです。
作曲者の死後、作品が評価されるということは芸術の世界では珍しくありません。
良い作品が評価されるには、時間がかかるということなのかもしれません。
次回は、序曲「1812」の解説に入っていきます。
いかがだったでしょうか?
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( `Д´)/ジャマタ
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