どうも、nickです。
大人のための音楽鑑賞の回です。
今回から解説する楽曲はこちらです。
今回は成田為三作曲、林古渓作詞の「浜辺の歌」をわかりやすく解説していきます。
前編となる今回は、作曲者である成田為三について解説していきます。
作曲者の紹介
成田為三(1893年 – 1945年)は、秋田県出身の日本の作曲家です。
成田は秋田県の米内沢町(現在の北秋田市米内沢)に生まれました。
1909年(明治42年)に秋田師範学校に入学した成田は音楽に目覚め、朝から晩までピアノに熱中していたそうです。
その熱意はピアノに飽き足らず、バイオリンやチェロも弾きこなしていたそうです。
山田耕筰との出会い、作曲家キャリアのスタート
成田は1914年(大正3年)東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学しました。
在学中、成田はドイツから帰国したばかりだった山田耕筰に作曲の教えを受けることができました。
※参考 山田耕筰について
この教えのおかげなのか、成田は在学中に「浜辺の歌」を作曲、発表しました。
1917年(大正6年)に同校を卒業した成田は、小学校の音楽の先生をしながら作曲を続けました。
この頃から童謡雑誌『赤い鳥』の主宰者である鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に作品を発表することとなりました。
そして日本で初の童謡「かなりや」を発表しました。
童謡運動について
成田が活躍していた大正時代は、「子どもの美しい空想や感情を育てる詩と歌を創作する」という一連の運動がありました。
この運動は自由主義を求める動きである大正デモクラシーの影響を受けたことを背景に、当時の唱歌の歌詞が難解であることに対する反発的な運動でした。
そんな中、小説家の鈴木三重吉が中心となって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されました。
三重吉は詩人の北原白秋の協力のもと、「赤い鳥」を通して児童文学の発展に力をつくします。
ドイツへ留学
1922年(大正11年)、成田はドイツへと留学し、西洋音楽の作曲法を学びました。
成田は5年間の留学ののちに帰国。
その後成田は身に付けた対位法の技術をもとに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行しました。
児童向けの輪唱というと「カエルの歌」が例に挙げられます。
さらに成田は、「和声」「作曲法」「対位法」などの理論書を多く出版し、西洋音楽を日本に広めるため尽力をつくしました。
童謡作曲家としての悩み
実は成田は、童謡以外にも多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲していました。
成田は童謡の作曲家としての成功の一方、器楽曲や管弦楽曲はあまり評価されませんでした。
このことについて本人はジレンマを感じることが多かったようです。
「浜辺の歌」が当時のラジオから流れたときも、
早く終わればいいのに・・・
と弟子につぶやいたそうです。
空襲による焼失
成田は川村女学院(現在の川村学園)、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の講師を経て、1942年(昭和17年)に国立音楽学校の教授となりました。
ですが、1945年(昭和20年)の空襲で自宅が被災してしまったため、米内沢への疎開を余儀なくされました。
残念ながらこの時に、成田の作品の大半が失われてしまいました。
童謡以外の作品
研究者の調査では成田が世に発表した作品は300曲以上が確認されており、彼が日本の音楽界で果たした役割の大きさが再認識されつつあります。
君が代変奏曲
こちらの作品は国家「君が代」の旋律による変奏曲になります。
疎開、そして突然の死
空襲によって書いた楽譜や集めてきたレコードなどが焼失し、途方に暮れた成田は地元秋田への帰郷を余儀なくされました。
半年の疎開生活を送ったのち、日本は終戦を迎えました。
成田は玉川学園の教員として迎えられたために東京へと戻ることになりました。
しかし成田は列車を降りたところで突然の脳出血で倒れ、そのまま亡くなってしまいました。
葬儀は務めるはずであった玉川学園の講堂で行われ、生徒たちによって「浜辺の歌」が捧げられました。
まとめ
今回のまとめは次のとおりです。
・成田為三は明治、大正、昭和にかけて活躍した作曲家である
・成田は雑誌「赤い鳥」を通して童謡の普及に貢献した。
・空襲によって大半の作品が失われたが、研究によって再評価が進んでいる。
次回は浜辺の歌の詳しい解説にうつります。
いかがだったでしょうか?
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( `Д´)/ジャマタ
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