どうも、nickです。
大人のための中学音楽の回です。
今回から解説する楽曲はこちらになります。
今回から山田耕筰作曲、三木露風作詞の「赤とんぼ」をわかりやすく解説していきます。
第1回目となる今回は作曲者と作詞者の紹介をします。
作曲者の紹介
山田耕筰(やまだ こうさく、1886年 – 1965年)は、日本の作曲家、指揮者になります。
山田は日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた人物でもあります。
また、ニューヨークで自作の管弦楽曲を演奏したり、ドイツやロシア等海外のオーケストラの指揮をするなどの活動をしていたため欧米諸国でも名前が知られております。
生涯
山田は旧福島藩士で医者、キリスト教伝道師の山田謙造の子として生まれました。
山田は13歳のとき、姉のを頼り岡山の学校に入学。姉の夫であるエドワード・ガントレットから西洋音楽の手ほどきを受けました。
1904年、山田は東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京芸術大学)声楽科を卒業しました。
音楽学校を卒業した山田は、1910年(明治43年)から3年間三菱財閥の総帥である岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー留学し、西洋音楽の作曲法を学びました。
留学時に日本人初となる交響曲『かちどきと平和』を作曲しました。
また、「浜辺の歌」で有名な成田為三に指導するなど後進の指導にも力を入れました。
※参考 成田為三について
2度オーケストラ運営を手掛けるも失敗
山田はかねてから「日本での本格的なオペラの上演」と「常設オーケストラの設立」を掲げていましたが、資金面などの問題で山田一人では実現ができませんでした。
そこに現れたのが三菱財閥総帥であり、かなりの音楽愛好家でもあった岩崎小弥太でありました。
岩崎は山田のドイツ留学を援助する一方で、自身も音楽鑑賞のサークルとして「東京フィルハーモニー会」を設立しました。
そして東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者として、ドイツから帰国したばかりの山田が就任しました。
サークルはその後小規模のオーケストラとなり、1915年から公演を開始しました。
ところが、この頃最初の結婚をした山田が程なく別の女性に手を出してしまうスキャンダルが明るみになります。
それを聞いた岩崎は激怒し、オーケストラへの出資をストップしてしまいました。
岩崎からの出資が止められた東京フィルハーモニー会は金銭的に困窮することになり、最初の公演からわずか1年足らずで解散してしました。
しかし、それにめげずに山田は1924年には近衛秀麿と共に、現在のNHK交響楽団の前身である「日本交響楽協会」を設立しました。
ですが、今度は不明朗な経理を理由にオーケストラ内で内紛が勃発。
そのままオーケストラは内部崩壊してしまいました。
再起と晩年
山田は2度のオーケストラ運営の失敗により多額の借金を抱えていたが、「赤とんぼ」など童謡の名曲が数々生まれたことをきっかけに再起。
その後の山田は大学教授や音楽協会の会長を務めるなどして、西洋音楽の普及と教育に尽くしました。
1965年、心筋梗塞により死去。
昭和のセクハラ親父?
オーケストラの設立や音楽協会での活躍の一方で、山田は女性関係にとてもルーズでした。
多数の女性との噂もさることながら、宴席での猥談は関係者の間ではとても有名だったそうです。
山田の弟子であった作曲家の團伊玖磨は次のように語っていました。
山田の発言は、現代ならセクハラで社会から葬られてる。
しかし山田の話術が巧みだったこともあり、実際に社会から葬られることはありませんでした。
巧みな話術があったからこそ、2つのオーケストラの運営できるだけの人脈を得られたのかもしれませんね。
※参考 團伊玖磨と「花の街」
代表的な作品
ここで山田耕筰の代表作を1つ紹介させていただきます。
長唄交響曲第3番『鶴亀』
長唄とは江戸時代に歌舞伎の伴奏として発展した音楽になります。
この曲では江戸時代に十代目杵屋六左衛門によって作曲された長唄『鶴亀』が使われています。
山田はこの『鶴亀』に対位法を用いてオーケストラによる伴奏を重ねました。
和楽器と西洋楽器の融合は、武満徹が作曲した「ノヴェンバー・ステップス」を数十年先取りしています。
武満徹と「ノヴェンバー・ステップス」については以前の解説を参考にしてください。
作詞者の紹介
三木露風(みき ろふう、1889年 – 1964年)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家です。
三木は1889年に兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に生まれました。
三木は5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられた。
三木は小中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿していました。
17歳で詩集『夏姫』を、20歳で代表作『廃園』を出版し、同世代の詩人北原白秋とともに注目された。
1916年から1924年まで、北海道上磯町(現・北斗市)のトラピスト修道院で文学講師を務めました。
1928年より、東京都三鷹市牟礼に移住。以来亡くなられるまでの36年間をこの地で過ごしました。
1964年、タクシーにはね飛ばされた際の脳内出血が原因で死去。
まとめ
今回のまとめは次のようになります。
・山田耕筰は日本で初の交響曲を書いた作曲家である
・山田は日本初のオーケストラの立ち上げに関わるも失敗してしまう
・山田は長唄とオーケストラを使うことで、和楽器と西洋楽器の融合をいち早く取り入れた
様々な理由でオーケストラの運営に失敗したとはいえ、山田耕筰が日本の西洋音楽発展に大きな影響を与えたことには間違いありません。
次回は「赤とんぼ」の詳しい楽曲解説を行っていきます。
いかがだったでしょうか?
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( `Д´)/ジャマタ
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