【大人のための中学音楽】彼の命も花と散る?滝廉太郎の生い立ちと当時の日本をわかりやすく振り返る

大人のための音楽鑑賞
nick hosa
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どうも、nickです。

久しぶりの大人のための中学音楽の回です。

今回から解説するのは、次の曲になります。

今回から滝廉太郎」を、2回に分けてわかりやすく解説していきます。

こちらの歌は中学3年生で歌われることの多い歌ですので、皆さんも歌った記憶があるのではないでしょうか?

1回目の今回は滝廉太郎の生涯と、当時の日本の情勢を振り返っていきます。

滝廉太郎とは?

滝廉太郎(1879年-1903 年)は明治時代の日本の作曲家です。

彼は短い生涯のうちに歌曲を中心に多く作品を残しました。

また彼は、日本の西洋音楽発展の黎明期における代表的な音楽家の一人でもあります。

幼少期の生い立ち

廉太郎は1879年に旧日出藩士の長男として東京に生まれました。

滝家は元々、江戸時代に豊後国日出藩の家老職を代々務めた上級武士の家柄だったそうです。

また廉太郎の父は廃藩置県後に上京し、大久保利通伊藤博文らの下で内務官僚として勤めた後、地方官として勤務していました。

大久保利通(左)と伊藤博文(右)

そのため廉太郎も、生後間もなくから各地を回ることになりました。

住むところを転々としながら、最終的に1890年に東京の小学校を卒業しました。

卒業時にピアノの演奏をしたらしいのですが、何の曲を弾いたのかはわかっておりません。

このことから、おそらく廉太郎は小学生頃からピアノを始めたと思われます。

また廉太郎の家は家柄や父の職業、当時珍し買ったピアノに触れられた環境から、かなり裕福な家庭であったと推測される。

才能の開花

廉太郎は1894年に現在の東京芸術大学に入学し、より本格的にピアノを学ぶことになります。

そして、大学卒業後の1900年に日本人初のピアノ独奏曲である「メヌエット ロ短調」を作曲しました。

この曲では和風の旋律を使うなど、今後の日本における西洋音楽の方向性を予見させる作曲が行われています。

廉太郎はこのほかにも、幼児や学校教育用の歌曲をたくさん作曲しました。

その活躍が認められたからなのか、廉太郎は日本人としては3人目となるヨーロッパ留学の留学生に選ばれました。

ドイツへの留学

廉太郎は1901年に日本を出国し、ドイツへと渡りました。

ベルリンではヴァイオリニストの幸田幸らと交友をもち、ライプチィヒでは文部省外国留学生として作曲や音楽理論を学ぶことができました。

しかし、結核を発症してしまったため、わずか5ヶ月の滞在しかできませんでした。

早すぎる死

日本に帰国した廉太郎ですが、自分の命が残り少ないことを悟っていたのか死の4か月前に『憾(うらみ)』というピアノ曲を最後に残しています。

渡欧前の曲である「メヌエット」と比べると、西洋音楽の影響が濃くなっているのが曲の雰囲気でわかります。

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また、留学先がドイツであったことの影響なのか、シューマンなどのドイツロマン派への影響が見られます。

その後の療養も虚しく、廉太郎は23歳の若さでこの世を去ってしまいました。

主な作品

ここでは滝廉太郎の主な作品を2つ紹介します。

荒城の月

荒城の月は鑑賞や歌唱の教材としても馴染みのある作品かと思います。

荒城の月は日本で作曲された初めての西洋音楽の歌曲とされており、日本の音楽史上とても重要な曲であります。

お正月

廉太郎は生前、子どものための歌も数多く書き残しました。

その中でも特に有名なのが「お正月」だと思います。

「お正月」は1900年に幼稚園唱歌に収められ、現在にいたっています。

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なお作詞をした東くめは、日本で初めて口語による童謡を作詞した人物として有名です。

当時の日本の情勢と音楽史

ここからは滝廉太郎の作品をより深く知るために、当時の日本の情勢についてまとめてみます。

滝が生きた年代は、日本史的にはちょうど日清戦争日露戦争の間の時期になります。

日清戦争での賠償金もあり、この頃は明治の時代の中でも比較的豊かな時期でありました。

西洋音楽の輸入

明治時代になり、欧化政策の1つとして西洋音楽への関心と研究が進みました。

そして、国策として西洋音楽を積極的に輸入していくことになっていきます。

特に、軍楽隊の普及に伴って西洋音楽が取り入れられていくことになっていきます。

ですが、当初使われていた音楽は海外の作曲家による曲に日本語あてがうというものでした。

国策としての日本人作曲家の育成

前述の軍歌以外にも、明治時代の前半には多くの翻訳唱歌が生まれました。

しかし外国のメロディーに日本語訳詞を無理にはめこんだぎこちない歌がとても多かったようです。

そのため、日本人作曲家によるオリジナルの唱歌を望む声が徐々に高まっていきました。

そこで政府は、日本人の作曲による西洋音楽の定着と普及を目指すこととしました。

海外から教師を呼んだり、ヨーロッパの音楽学校への留学を推し進めるなど、国を上げて西洋音楽の普及、浸透に尽くしました。

その後、西洋音楽の教育を受けた日本人作曲家たちが、西洋の音楽形式に基づいた曲を多数作曲していくことになっていきます。

この頃作曲された日本人による西洋音楽の例

ここで日本人による西洋音楽の曲を紹介します。

瀬戸口藤吉:「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」

1900年に海軍の軍楽師であった瀬戸口藤吉が「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」を作曲しました。

山田耕筰:交響曲『かちどきと平和』

1912年には「赤とんぼ」の作曲でお馴染みの山田耕筰が、日本人初の交響曲である『かちどきと平和』を作曲しました。

こうした彼らの活躍を機に、日本人の作曲した西洋音楽が普及してゆくことになります。

日本音楽史上での滝廉太郎のポジション

滝廉太郎は、ちょうど日本が西洋音楽を普及させようとしている時期に活躍しておりました。

廉太郎は日本人による西洋音楽の作曲をおこなった先駆け的な人物なのです。

彼がいなければ、「軍艦マーチ」や「かちどきと平和」といった曲は生まれてこなかったかもしれません。

このような理由もあって、中学校の授業で滝廉太郎の曲をあつかっているのだとnickは考えています。

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もし滝廉太郎が長生きしていたら、日本の音楽の歴史は今とは違った発展をしていたかもしれませんね。

まとめ

今回のまとめは次のようになります。

・滝廉太郎は明治時代の作曲家で、日本人作曲家の先駆者である

・裕福な家庭に生まれた滝は、ピアノを通して音楽の才能を開花させた

・明治時代の日本は、国策として西洋音楽の普及と発展を進めていた

・今後の活躍を期待されドイツに音楽留学するも、若くして亡くなってしまった。

滝廉太郎の生涯と、当時の日本の情勢を知っておくことで「花」という作品をより深く知ることができます。

次回は楽曲のより詳しく解説をしていきます。


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( `Д´)/ジャマタ

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