
どうも、nickです。
大人のための中学音楽の回です。
今回解説する作品はこちらです。
今回は中田章作曲、吉丸一昌作詞の「早春賦(そうしゅんふ)」をわかりやすく解説します。
前編となる今回は作曲者と作詞者の紹介を行います。
作曲者の紹介

中田 章(なかだ あきら、1886年(明治19年) – 1931年(昭和6年))は日本の作曲家兼オルガニストです。
東京都出身であった彼は、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の校長を務めていた高嶺秀夫の奨めによって、同校に進学しました。
中田は東京音楽学校の甲種師範科および研究科卒業し、そのまま音楽理論とオルガンの教師として同校の教授に赴任しました。
東京音楽学校の教授を務める傍ら、歌曲や校歌を中心とした作曲活動を行なっていきました。
中田は45歳の若さで亡くなったため、多くの作品は残されておりません。
今回解説する「早春賦」は、中田が30歳になるかならないかというときに作られたそうです。
息子は誰でも知っているあの曲の作曲者
なお、「夏の思い出」を作曲した中田喜直は、彼の三男にあたります。


中田喜直の「夏の思い出」についてはこちらをご参照ください。
前編
後編
作詞者の紹介

吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)- 1916年(大正5年))は、日本の作詞家、文学者、教育者です。
幼少期

吉丸は大分県の旧臼杵藩下級武士・の長男として生まれました。
小学校尋常科から小学校高等科卒業までの吉丸の成績は非常に優秀で、吉丸は県から度々表彰を受けていたそうです。
その後吉丸は、内閣総理大臣経験者をはじめ、多くの政治家や官僚を輩出した名門校である第五高等学校に進学しました。
当時第五高等学校の教授には夏目漱石や小泉八雲などがおり、吉丸は彼らから多大な影響を受けたと思われます。
1898年、第五高等学校を卒業した吉丸は東京帝国大学(現在の東京大学)国文科に進学しました。
大作家の教師として

1902年、吉丸は東京帝国大学を卒業し東京府立第三中学校に教師として赴任しました。
当時の教え子の中には、後に大作家となる芥川龍之介がいました。

その後吉丸は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の倫理、歌文、国語の教授に推薦され、同校に赴任しました。
唱歌の編集にあたる

吉丸は1911年から1914年にかけて発行された『尋常小学唱歌』編纂委員会の歌詞担任委員主任になって以降、本格的に作詞家としての仕事に取り組むようになりました。

なお、尋常小学唱歌の題名原案を作成したのは、この吉丸なのだそうです。
吉丸は1912年から1915年にかけて『新作唱歌』全10集の編集に関わりました。
唱歌の作曲には、東京音楽学校の卒業生である中田章などの新人を主に起用しました。
そこで作曲された唱歌が、今回解説をする「早春賦」になります。
その後吉丸は、日本初のオペレッタと言われる『歌遊び うかれ達磨』の作詞なども行うなど、活躍の幅を広げていきました。
私生活と晩年

吉丸は自費で私塾を開くなど、学生たちのために出資を惜しまない人物でした。
本人の生活は極めて質素だったという反面、酒をこよなく愛していたため非常に豪放磊落な人物として周囲に知られていました。
酒好きが災いしたのか、吉丸は1916年に心臓発作により43歳という若さで亡くなってしまいました。
吉丸の遺骨は、東京都文京区本駒込の龍光寺に葬られております。
まとめ

今回のまとめは次のとおりです。
・作曲者の中田章は「夏の思い出」を作曲した中田喜直の父親にあたる人物である
・作詞者の吉丸一昌は尋常小学唱歌編集を務めるなど、音楽教育に貢献した人物である
・「早春賦」は当時駆け出しだった2人の作詞家、作曲家による作品である
次回は「早春賦」の詳しい楽曲解説を行なっていきます。

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( `Д´)/ジャマタ
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